Thursday, March 23, 2006

Tel Avivから一時間半ほど南下するとNegev砂漠の端っこ出る、ここはイスラエルとパレスチナの地政学的な関係を知るには最適な場所だ。目の前には地中海が広がり、ここだけが安全な国境線であり、左はGaza、ど真ん中にはしばらく前まで入植者の住んでいた緩衝地帯、右には発電所が見えAshkelonに電力を供給している。そしてかなり後ろにはAriel Sharonの私有地が広がり、直近の町がSderotである。ここはGazaに最も近いイスラエルの町で、二年前にはGazaから発射されたロケット砲によってEthiopia系の子供が殺される事件が起きている。 この町には2人のカリスマ的存在がいる。Histadrut(イスラエル貿易組合)のheadを勤め、Shimon Peresを追い落とし,労働党の党首になったAmir Peretzと市長のEli Moyalである。この町は、1951年に新たな移民のためのテント村として誕生し、現在ではいかがわしい開発地域の烙印を押されている。大雑把にいうと、人口16,500人の半分はモロッコ系住民で、半分を少しばかり下回る住民が最近移民してきたロシア系で、残りがエチオピア系だ。Likud系の市長は「ここには全てのカタストロフが揃っている」と述べている。モロッコでガソリンスタンドの倅として生まれたPeretzと聖職者の息子として生まれたMoyalは多くのモロッコ系住民の例に漏れず、Ashkenzazi 系住民の差別と戦いながらこの地で育った。Peretzはイスラエル政界において常識とされる、国防第一の政策を引っ込め、2年間の間に、子供を貧困から救うと表明した。全くのポピュリストだとの評価もあるが、「ブラフに決まっているさ。彼だったら、Peresなんかより強硬な態度を取るに決まっている。だって彼はモロッコ人だぜ」という市民もいる。モロッコ系の住民はイスラエル社会で孤立し、ブラックパンサー党を結成し、市民権の拡充を求め階級闘争を繰り広げた。これを外側から見ていたパレスチナ人のEdward Saidはパレスチナ建国における同調者とさえ位置づけていた時期もある。だが、Sephardi(non-European Jew)のメンタリティーは複雑だ。大多数のモスリムに囲まれ何世紀も過ごしてきた彼らの祖先には、政治力などなく、何も言えず、政治に関与することなどユダヤ教の教えに反することであった。彼らの生存空間は正にゲットーであったわけだ。それゆえ、Sephardiはアラブ人の習慣や性向を良く理解しており、そこから逃げ出したわけだ。ロシア系住民も、ロシア兵としてチェチェン、アゼルバイジャンでモスリムと戦い、この地にたどり着いた。
 ユダヤ人には夢見る能力が欠如しているというが、キブツはユダヤ人の相互扶助主義を具現化する理想郷であったはずで、ロシアの共産主義的にも影響を与えた。Sharonは入植地を打ち捨て、パレスチナとの壁を築き、拡大主義と一線を画したが、イスラエル国内における地殻変動も放置しがたい状況にあったことは間違いない。今後、Kadimaが国民の求心力を掴むのか、Netanyahuが巻き返すのか、それとも労働党が信任を得るのか、不透明な情勢である。しかしHamasが相手となると、それほど態度が変わるはずがない。こうした情勢が続いた場合、不満を募らすのはSephardiだけではないのだろう。とても理想的とも思えない国家へと、向かわざるを得ない人がいることを、心の隅にでも置いておこう。
Gardian March 22
Amir Peretzは

0 Comments:

Post a Comment

<< Home